大田南畝肖像

(鷹橋忍:ライター)

今回は、大河ドラマ『べらぼう』において、桐谷健太が演じる大田南畝を取り上げたい。

「此の児、方に当に大成すべし」

 大田南畝は本名を覃(ふかし)、通称を直次郎という。

 他にも狂歌名の四方赤良、狂詩名の寝惚先生などいくつもの名が知られるが、ここでは大田南畝で統一する。

 南畝は寛延2年(1749)に、牛込仲御徒町(新宿区中町)で生まれた。寛延3年(1750)生まれの蔦屋重三郎より、一つ年上である。

 父は、幕府の御徒(おかち)を務める大田正智。

 御徒とは、将軍の警護を任とする下級幕臣である。直参ではあるが、お目見え以下で、旗本ではなく御家人だった。

 母の利世(りよ)は、幕臣の娘である。

 大変に教育熱心で、子どもに師匠につける際には、まず自分が会って人物を確かめたという(小池正胤『反骨者 大田南畝と山東京伝』)。

 利世は聡明だったといわれ、南畝はこの母の血を、強く受け継いだと考えられている(沓掛良彦『大田南畝―詩は詩佛書は米庵に狂歌おれ』)。

 家禄は七十俵五人扶持。一家が食べていくのがやっとという低所得層で、貧苦に陥っていた。

 下級幕臣が栄達するためには、学問に励んで登用試験である学問吟味に合格し、役に就くことしか道はない。

 南畝も8歳にして、後に医者となる多賀谷常安という男性に、漢学の手ほどきを受けた。

 南畝があまりに優秀なため、多賀谷常安は自身の師である内山賀邸(うちやまがてい)のもとで学ぶように勧めたと伝えられる。

 内山賀邸は儒学者から国学者に転じ、狂歌を好み、和歌も江戸六歌仙の一人に数えられる人物である。

 宝暦13年(1763)、15歳の時、南畝は勧めに従い、内山賀邸の門に入った。

 賀邸は南畝に接すると、その力量を見抜き、「此の児、方(まさ)に当(まさ)に大成すべし」と将来の成功を予言している「(『明詩擢材』)。

 南畝は内山賀邸のもとで、主に国学や歌学を習った。ここでの研学が、戯作や随筆、紀行文や狂歌など書くための基盤となったと考えられている。

 ここで出会い、特に親しく付き合ったのが、木村了が演じる平秩東作である。

 平秩東作は南畝よりも23歳年上で、安田顕が演じた平賀源内とも交流があった。