
歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
父は北条義時
鎌倉幕府第3代の執権となる北条泰時は、寿永2年(1183)に生まれました。時は、治承・寿永の内乱(源平合戦)の真っ只中。それは、源(木曾)義仲が入京し、平家が都落ちするという激動の年でした。泰時の父は、北条義時。泰時が生まれる2年前(1181年)、義時は、源頼朝の寝所を警固するメンバーの1人に選ばれています。
一方、泰時の母については、謎が多い。「官女・阿波局」が泰時の母だとする説が一般的です。つまり、泰時の母は、幕府に仕える女官だったとされます。が、それ以上の詳しいことについては不明です。阿波局は、泰時の少年時代に亡くなったものと推測されます(1192年、義時は、比企朝宗の娘を妻に迎えています)。
父の義時は『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)によると、頼朝から「我が子孫を守ってくれるに相違ない」と言われるほど、信頼されていました。その頼朝の想いは、少年・泰時(幼名は金剛と言いましたが、煩雑であるので、ほぼ泰時で通します)にも向けられたようで、頼朝が泰時を少年でありながら、厚遇する様が同書から伺えます。
それは、建久3年(1192)のこと。泰時は10歳となっていました。泰時が散歩している時、多賀重行という武士とすれ違いますが、重行は「下馬の礼」をしませんでした。そのことを聞いた頼朝は「礼儀は、長幼の順とは関係ない。その者がどのような身分の人かに拠るものである。金剛(泰時)ほどの者は、お前(重行)のような傍輩とは違うのだ」と直接、重行を叱り飛ばします。
重行は畏怖しつつ「馬に乗ったまま通り過ぎたということはありません。若君(泰時)とその従者に確かめてみてください」と主張。頼朝は、泰時らに確かめてみると、泰時もその従者も、重行の言葉に嘘はないと言います。ところが、頼朝は更に激怒したのです。「後に追及されることを恐れもせず、嘘を言い、一時の罪を遁れようとするとは、その心中、その行為、甚だ奇怪である」と何度も言ったとのこと。頼朝は、重行の言葉を頑として信用しなかったのです。