
歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
念願の老中に就任
「拙者は今はこのような役職に就いてはいるが、何れは老職(老中職)にまでなる積もりである」と豪語したとされる田沼意次。その願望は何れ叶えられることになるのですが、彼の出世遍歴とはどのようなものだったのでしょう。
意次を大いに引き立てたのは、9代将軍の徳川家重でした。宝暦8年(1758)には、禄高1万石の大名となり、評定所出仕を命じられています。また、家重は臨終の際に、子の家治(10代将軍)に対し「意次は全き人である。ゆくゆく、心を添えて、召し仕えよ」と遺言したとのこと。よって、意次の重用は、新将軍にも受け継がれたのでした。
石高の加増(5千石加増)や、明和4年(1767)には御側御用人に任じられ、明和9年(安永元年)にはついに念願の老中に就任するのです。意次が出世をした大きな要因の1つは、側用人として、将軍の御前に侍っていたからでしょう。まだ側用人だった頃の意次の逸話として、次のようなものが残っています。
ある時、殿中にて、意次は老中の秋元涼朝(武蔵国川越藩主)とすれ違います。ところが意次は、しきたり通りの挨拶をしなかったそう。これに怒った秋元は、意次の同輩を呼びつけて、意次の無礼を咎めたといいます。意次は「用事に気をとられて廊下を急いでいたこともあって、つい欠礼してしまった」と秋元に詫びを入れたそうです。おそらくそれは本当のことだったのでしょう。
意次というと「賄賂政治」のイメージから傲岸不遜な人物との誤解があるかもしれませんが、彼が残した遺訓には「同族(一族)中には申すに及ばず、同席の衆、付合のある衆へは表裏なく、疎意(疎んじる気持ち)がないように心がけるべきである。 どんなに低い身分の者でも人情をかけるべきはかけて、差別なきようにすること」との言葉があるのです。
さて、意次の「非礼」に怒った秋元ですが、老中職を辞めてしまいます。「意次の讒言を恐れて、病と称して出仕せず」との見解もあります。これが本当ならば、意次を叱りつけてみたものの、将軍の寵臣である意次が讒言するのではないかとの恐れを生じて、ついに辞任したことになります。意次の「権勢」が分かる逸話ではあります。