辞典ができたのはそんなに昔の話ではない(PDPicsによるPixabayからの画像)

 今回は、AIの教育応用について、ことによると意外な、でも極めてオーソドックスな実践例を紹介したいと思います。

 去る5月20日付で、算数・数学教科書のプロジェクトでご一緒させていただいている甘利俊一・東京大学名誉教授の最新刊、講談社ブルーバックス「脳・心・人工知能〈増補版〉 数理で脳を解き明かす」が上梓されました。

 4月に書かれた増補版あとがきを、甘利先生は「・・・人類の長年の文化の発展をここで壊すわけにはゆかない。社会は不安定な時期を迎えようとしているが、人類がこれを賢く切り抜けて躍進することを祈るばかりである」と結んでおられます。

 いまだ「生成AIを教育に用いるべきか」といった議論も目にしないわけではなく、文部科学省初等中等教育局も昨年末「生成AI利活用ガイドライン」を公表しています。

 しかし、いまだおよそ十全とは言えない状況が続いています。

 誤謬の主要原因はいくつか指摘できますが、いずれも初歩的な誤解や無理解に基づくもの。

 例えば、AI出力が「正しい」と信じ込む、あるいは「完全な英訳」が存在すると思い込んでいる、などなど。

 この問題は1970年代初頭に登場した「電卓」を小中学校の教育に導入すべきか、否かという議論に似ています。

 現実的な正解は「臨機応変」、社会が利用に馴れ、世代が変化していくことで、自然と解消されるでしょう。

 以下では、今現在私が東京大学教養学部や、東海大学付属菅生高等学校中等部などで指導している「俳句をAIで試作させ、それに手を入れて作句する」教育の「正統性」を、古くは正岡子規から尾上柴舟、金子兜太などの思考に遡って紹介したいと思います。

若者の創意欠乏を嘆いた金子兜太と高畑勲

 毎週火曜の夕方、私が東京大学駒場キャンパスで開講している学部向けのゼミに「俳句ソニマージュ」というコマがあります。

 もとは2016~2017年、俳人の金子兜太さんとアニメーション監督、高畑勲さんとのお話で、こうしたものが必要という議論になった。

 生前は「戦闘的な平和主義者」(?)として高名だった兜太、高畑の両氏ですが、実はお2人を直接引き合わせたのは、私が安田講堂で主宰した「哲学熟議」が最初でした。

 97歳の兜太さんの前で、80過ぎの高畑さんが背筋をシャキッと伸ばして、青年のようだったのが大変印象深かった。

 その後、お2人とはいろいろな議論をご一緒しました。

 特に、戦前の大学生は(数も少なかったけれど)兵役があり、出征すれば死を覚悟せざるを得ないので、誰もが「辞世の句」「辞世の歌」など詠めるようにしていました。

 良くも悪しくもこれが戦後は減っていったという話になりました。

「辞世」については戦後になって欧米各国から「日本の兵士は戦場で詩を詠んでいる」と驚嘆されます。

 確かに世界に絶無の習慣かもしれません(他国での例外などご存じの読者があれば、是非ご教示ください)。

 翻って今の大学生は、何かをオリジナルに「真剣に創る」ということが苦手で、これは本当に心配だ・・・という認識で同じ大学のOBである兜太さん、高畑さんと意見が一致しました。

「では、そういうゼミを東大教養で作りますから、ぜひ登壇してください」と、現役の教授として私がご提案したのですが、2018年の初頭、相次いで他界され、お2人のご登壇はかないませんでした。

 ちなみに、「俳句ソニマージュ」の「俳句」は俳句、「ソニマージュ」はソン「son (音)」とイマージュ「image (映像、心象)」を組み合わせた、スイスの映画作家ジャン・リュク・ゴダール(1930-2022)の造語。

 文学でも音声動画でも何でもいい、「作品」を作ってごらん・・・というゼミナールを続けているのですが、特に東大生がこういうのを苦手にしているんですね。

 正解がないと不安という学生が少なくない。

「やったことがない、どうしたらいいか分からない、どうすればいいんですか・・・」となってしまう。