
写真提供:京セラ
20代で京セラを創業、50代で第二電電企画(現KDDI)を設立して通信自由化へ挑戦し、80歳を目前に日本航空の再生に挑んだ稲盛和夫氏。いくつもの企業を劇的に成長・変革し続けてきたイメージのある稲盛氏だが、京セラで長らく稲盛氏のスタッフを務めた鹿児島大学稲盛アカデミー特任教授の粕谷昌志氏は、「大変革」を必要としないことこそが稲盛経営の真髄だという。本連載では粕谷氏が、京セラの転機となる数々のエピソードとともに稲盛流の「経営」と「変革」について解説する。
事業発展を目的としながらも、合併買収を通じ、倒産の危機にあった元サイバネット工業の社員たちに再起の場を用意した稲盛。ビジネスとして、そんな配慮や苦労が実を結ぶのか──。今回は、サイバネット工業合併の翌年にあったヤシカの救済合併の事例から、稲盛の経営哲学を探る。
懸命に働く社員を幸せにするために行った、ヤシカの救済
1983年4月1日、驚愕のニュースが新聞一面を飾った。京セラと、カメラメーカーとして知られていたヤシカの合併である。「オプトエレクトロニクス(電子と光学の融合)による新しい時代の幕開け」とうたわれたが、実態は京セラによるヤシカの救済合併であった。
発端は、ヤシカ遠藤良三社長が人を介し、救済を求めてきたことにあった。カメラ業界自体が成熟産業となり、名門ヤシカといえども、合理化を長年にわたり進めるも、苦しい経営を強いられていた。1982年3月期決算でも赤字を出し、国内14社の競合がひしめき合う業界で展望を見出すことは難しかった。
稲盛和夫は、ヤシカの実態を知るべく、すぐさま長野岡谷工場に飛んだ。現場をつぶさに見学した稲盛は、社員の姿に心打たれた。「こんなに働いて、幸せにならないのはおかしい」とも考えた。懸命に努力を重ねる人の姿に弱く、努力は報われなければならないと信じている稲盛は、すぐに救済を決意した。
