
1941年の6月22日に、独ソ戦は始まった。この独ソ戦をはじめ、第二次世界大戦当時のドイツ軍には、「天才作戦家」と呼ばれる知将が存在した。名は、エーリヒ・フォン・マンシュタイン。戦略・作戦・戦術という、戦争の三階層においては、上位次元の劣勢を下位からくつがえすことは難しい。数々の戦場で、そのほぼ不可能な課題をやってのけたマンシュタインとはどのような人物だったのか。現代史家の大木毅氏は、新著『天才作戦家マンシュタイン 「ドイツ国防軍最高の頭脳」――その限界』で、改めてマンシュタインの実像とその評価に迫った。
(*)本稿は『天才作戦家マンシュタイン 「ドイツ国防軍最高の頭脳」――その限界』(大木毅著、角川新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
【前編から読む】
◎「人格高潔な名将」か「責任逃れの戦争犯罪人」か——戦後、評価の揺れた“伝説の知将”の本当の価値
ヒトラーの下で働いたマンシュタイン
マンシュタインが第18歩兵師団の訓練と戦備推進に明け暮れているあいだにも、戦雲はいよいよ急を告げていた。チェコスロヴァキアを解体したナチス・ドイツは、その矛先を東の隣国ポーランドに向けたのである。
ヒトラーがまず要求したのは、ヴェルサイユ条約の規定により国際連盟の保護下に置かれ、「自由都市」と称されていたダンツィヒ(現ポーランド領グダニスク)の返還であった。
加えて、東プロイセン(当時、ポーランド領となった地域によって、ドイツ本土から分離した飛び地になっていた)とダンツィヒ間の道路・鉄道による連絡確保も、総統の所望するところとなった。
当初、ヒトラーは外交交渉で要求を実現しようとしていたが、いっこうに成果が上がらないのをみて、戦争に訴えることを決断した。ポーランド侵攻作戦「白号」計画もすでに立案済みであった。
こうした動きは、マンシュタインにも影響を与えずにはおかなかった。1939年夏、彼は、ポーランド侵攻の一翼を担う、ある軍集団の参謀長に就任することになるとの内示を受けたのだ。
ヒトラーも一目置く老将軍とともに
この軍集団の司令官に予定されていたのは、ドイツ陸軍の最長老であるゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将である。1875年生まれで、63歳になる上級大将はすでに退役していたが、当該軍集団の戦争準備を進めるため、1939年4月にひそかに召集され、現役に復帰していたのである。
ルントシュテットは、将軍たちの尊敬を集め、ヒトラーも一目置く存在であったから、こうした措置もむしろ当然であったろう。また、ズデーテン進駐において、マンシュタインの右腕となったギュンター・ブルーメントリットも、同軍集団の作戦参謀を務めることになっていた。