
時計とは時を告げる道具である。しかし、時計が時を忘れさせるためのものであったとしたら? エルメスはこの逆説的な発想により独自の複雑機構「タンシュスポンデュ(時間保留)」を今から14年前に開発。そして2025年、新たな装いの「アルソー」コレクションに搭載し、その哲学を再び世に問うている。
時を忘れ、今を慈しむ。タンシュスポンデュの独自世界
2011年に誕生した「タンシュスポンデュ」は、単に時刻を知らせるという時計の基本機能を超えた、エルメスらしい哲学を体現したタイムピースである。一分一秒に追われる現代社会において、時計のプッシュボタンを押すだけで時針と分針が一時停止し、文字通り「時間を保留」にする機能を持つ。時を忘れることで、逆説的に今この瞬間をより深く味わってほしいという、時間に対するエルメス独自の切り口を提案するものだ。
2025年、この独創性あふれる機構が「アルソー」コレクションに搭載され、新デザインとなって登場する。かつてないほどに洗練された「アルソー タンシュスポンデュ」は、透かし細工を施した文字盤の向こう側に、時を操る精巧な機構を見せる。スリムな42mmのケースに収められ、文字盤はガルバニック加工を施したサンバースト仕上げのブルー、ブラウン・デゼール、ルージュ・セリエの3色展開。アンリ・ドリニーが1978年にデザインした特徴的な非対称のラグが、その精緻な美しさを一層引き立てている。

ムーブメントについては、エルメス自社製H1837キャリバーをベースに、タンシュスポンデュ専用モジュールを組み合わせた精巧な機械を搭載している。透明な裏蓋からは、サーキュラーグレイン仕上げやコート・ド・ジュネーブ模様など、スイス高級時計の伝統的な装飾技法の粋を堪能できる仕様だ。

特筆すべきは、360度レトログラード式の時針と分針、そしてレトログラード式の日付針という、複雑かつユニークな機構である。このムーブメントはプッシュボタン操作一つで時間表示が瞬時に停止し、時針と分針が12時位置周辺に集まるという不可思議な動きを実現している。そして、もう一度プッシュすることで、保留された時間は正しい位置へと瞬時に戻り、再び正確な時刻表示を開始する。その一連の動きは、時計がまるで主人の休息に寄り添うようでもある。
エルメスの時計は単なる時を告げる道具ではなく、卓越したファッションアイテムとしての存在感も発揮する。「アルソー タンシュスポンデュ」は、ホワイトゴールドまたはピンクゴールドのケースに、アリゲーターやヴォー・バレニアなど、エルメスらしい厳選されたレザーストラップを組み合わせている。その美しいバランスは、腕元に洗練された装いをもたらすだろう。
「タンシュスポンデュ」は、私たちに時計とは何か、時間とは何かを問いかける。それは多忙な現代社会において、あえて時間の概念から解放され、「その瞬間」を存分に味わうための大胆な招待状にほかならない。エルメスはこの機構で、時間を忘れることで時間を慈しむというパラドックスを追求したのだ。
その意味でも「アルソー タンシュスポンデュ」は、時計という枠を超え、時間との新しい関わり方を提案する“芸術作品”なのである。もちろん、エルメスのサヴォアフェール(匠の技)を存分に楽しめる対象としても秀逸だ。


